創業宝暦二年二六〇余年たち吉の歩み

出発

京の地ではじまった歴史。店舗焼失から再起をかけた挑戦。

たち吉の前身、「橘屋吉兵衛」が京都の中心地・四条富小路に誕生したのは、江戸時代後期の宝暦2(1752)年のこと。周りには芝居小屋や茶屋が立ち並び、一昔前に隆盛を極めた元禄文化の栄華の残り香はまだまだ消えそうにもありませんでした。
江戸時代という、戦のない平穏な時代が育んだもの。それは「日々の暮らしを楽しむ」という慣習でした。こと、茶の湯の伝統がしっかり息づく京の人々は、日常の器に良い品をつかう喜びを知っていました。そんな目利き揃いの地で橘の家紋が入ったのれんを守り続けた、「橘屋吉兵衛」創業者の塚本長九郎をはじめ、代々の当主たち。江戸時代が終焉して、明治という新しい時代を迎えても、そののれんは変わらず京の地ではためいていました。

明治27(1894)年、8代目当主 岡田徳之助が屋号を「たち吉」と改称。大正、昭和と幾度かの戦火をくぐりながらもたち吉は同じ場所に建ち続け、太平洋戦争中の一時休業を経て、戦後まもなく営業再開。そのわずか4年後の昭和25(1950)年、思わぬ災難がたち吉を襲います。200年間も大切に受け継いできた店が、焼失したのでした。 それは京の町が一番の艶やかさを見せる祇園祭の夕方。四条通りで突然の叫び声。「大変や、たち吉が燃えてる!」。主人の冨田忠次郎がこつこつと金を貯め、ようやく陶器販売に本腰を入れようとしていた矢先の出来事でした。隣家から出火した炎は瞬く間に店に燃え移り、建物と商品を次々に飲みこんでいきました。ようやく鎮火した店内を見渡した時、忠次郎の脳裏に浮かんだのは店を継ぐまでの苦労の日々…。このままでは終われない。そして、忠次郎は起死回生の大勝負に出ます。ほどなくして、たち吉の前を通りかかった人々が目にしたのは、ひと言「再起」と書かれた大きな垂れ幕。そして揺れる文字の下で行われていたのは、なんと、焼け残った商品の大安売りでした。

危機を大きな転機に
原点と呼べる店づくり
ござを敷いて品物を並べただけの、夜店の茶わん市のような光景。しかし、これが図らずも高級なイメージが強かった、たち吉の商品を身近に感じさせる絶好の機会となりました。 たち吉の再起大安売りは大好評のうちに1か月ほども続き、火事からわずか半年あまりで店を再建するまでに。そして、昭和26(1951)年2月に開店したこの新店こそ、忠次郎の類いまれな発想力と工夫が詰まった「新生たち吉」そのものでした。 まず、世間を驚かせたのはセット陳列というアイデア。これまで主流だった同種類の器を重ねて並べる方法ではなく、忠次郎は「贈り物にしたくなるような、楽しい陳列を」と、違う種類を組み合わせて商品を展示しました。器のある暮らしの楽しさを伝え、器が“ギフト”になるという、これまでにない考え方を世の中へ提案したのでした。 さらに、商品には分かりやすい説明書きをつけ、色紙などの小物を使って華やかに目立たせました。これらの「陳列演出」を皮切りに、たち吉は従来の茶わん屋とは一線を画す、独自の商法をスタートさせていきます。

第2章変革

創作陶器という肩書
「陳列演出」とともに、新たに打ち出したのが「創作陶器」という聞き馴染みのない肩書でした。言葉自体も珍しければ、「どこにも売っていない、独自で考えた商品」という言葉の意味も斬新。というのも、当時の陶器小売商は窯元から問屋が仕入れた商品をそのまま売るのが当たり前のやり方だったからです。それをたち吉では、小売商の方から窯元に注文して希望の商品を作らせて売るという。そんな商売をしているところはどこにもありませんでした。この新しい「創作陶器」という肩書には、何より、使う人の心に寄り添い、暮らしの楽しさを贈る店でありたいという想いが込められていました。 「しみじみと心に通う贈りもの」。このフレーズが生まれたのもこの頃です。器は機能的であることはもちろん、心を伝えるものでなければならない。それが新生たち吉の信念であり、決意でした。

こうしてできた初期の創作陶器の代表作には、急須と湯のみを一揃いにした「お茶の間セット」や、木の葉形の皿が大小組み合わさった「吹き寄せ皿」などがあります。創作陶器は楽しさを贈るもの。だから箱も商品の一部と考え、和紙張りにしたり模様をいれたりと、装丁にも工夫を凝らしました。

お茶の間セット

また、お客様の要望に合わせ、進物用のガラス食器、アメリカ進駐軍向けの洋陶器、安くて丈夫な美濃焼など、これまで取り扱っていなかった商品も置き始め、画期的な売り場の様子は注目を集めることになります。 陶器の外商先といえば料理屋が常だった時代に、旅館や銀行、企業にいち早く目を付けたのも卓抜した着想でした。宣伝用に名前入りの灰皿をサンプルで作り、「小さい灰皿が大きい役目」という謳い文句とともに送付したのです。このサンプルセールはかなりの反響を呼び、のちのノベルティ販売へとつながっていきました。 たち吉の独自性は来店されたお客様へのサービスにも表れていました。ギフト商品には小さな造花の花束を同封する、陶器には糸底を磨くサンドペーパーをつける、土瓶には予備のツルを添える―。コストを度外視したこれら他店にない「心くばり」がお客様の心を捉え、多くの方々から器の定番としてご愛用いただくまでになりました。

第3章成長

戦後はじめての頒布会
戦後の混乱も収まり、高度経済成長に向けて世の中が活気づいてきた昭和30(1955)年、新聞に小さな囲み広告が掲載されました。「毎月わずか100円の会費でたち吉の陶器が届きます」。それは陶器小売業界初の頒布会の案内でした。 京都の老舗の商品が安価で手に入るとあって、たちまち申し込みが殺到。特に若い女性を中心に会員が急増し、1年後には京阪神だけで会員数が2~3万人、最盛期の昭和35~37年頃には全国で30万人もの会員数を誇る大ヒットを記録しました。 この「暮らしの陶器100円会」の成功は、たち吉の業績を大きく伸ばすことになりましたが、発案者の忠次郎は「茶わん屋が新しい時代に適応できることを知ってもらいたい」と頒布会のノウハウを惜しげもなく公開。その結果、全国で爆発的な頒布会ブームが起こり、大量生産体制が整えられて質のいい商品が今までより安く手に入るようになりました。「器のある暮らしを楽しんでほしい」という、たち吉の願いは、自分の店だけでなく陶器業界全体の発展という形でも叶えられることになったのです。

全国の皆様のもとへ
頒布会に先立つ2,3年前、たち吉は京都・河原町に初めての支店を出店します。清水焼の土産物向き商品が所せましと並べられた店内は観光客や修学旅行生で毎晩賑わい、閉店が22時、23時になることも日常茶飯事でした。また、それからしばらくして、大阪髙島屋、東京髙島屋の特選コーナーでの販売も開始。これを足掛かりに、ほかのデパートの販路拡大や東京進出が本格的に始動し、昭和31(1956)年には大阪の阪神百貨店に直営方式1号店が、昭和32(1957)年には銀座店がオープンしました。 たち吉が成長した第一の要因が頒布会なら、第二の要因はこのデパートへのコーナー出店といえます。この時業界からの反対を受けなかったのは、頒布会を広めた功績によるものだと伝えられています。 利益を独り占めにしない、たち吉の名は、結果的に京都の老舗でありながら全国に知られる存在になりました。そして、今日にいたるまで、「創作陶器 たち吉」の器にかける想いは、ずっと変わることなく、人へ、暮らしへ寄り添い続けています。

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